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大口昭彦弁護士 「国有地なんだから脱原発テントで占領して何が悪い」
2015-04-03 Fri 19:11
 出た・・・。
 キチガイ弁護士連中の頭脳にかかると、『国有地は皆の物』・・・じゃなくて、『国有地だから俺の物』という論理になります。

 脱原発を主張する過激な市民(プロ市民)が、経産省前の国有地に勝手にテントを設置。地裁から撤去の指示が出ても完全無視。
 このグループの弁護人である大口昭彦弁護士曰く、「ここはそもそも国民の土地だ!」


 あー、いつもの我が侭人間、極左人間が良く使う言葉だな、っと思いました。

 彼らの思考パターンには基本的に『自己』しかありません。
 だから「皆に権利があるんだから、俺が勝手にしたっていいんだ」「俺が勝手に使って何が悪い」となる訳です。
 彼らの狂った思考にかかれば、図書館の中で勝手に大音量の音楽をかけても「俺の権利」になるんでしょうね。


 最近よく聞くマンションに関する話題で、理事会が住民の意見を確認もせずにエントランスや植林、公園の改造を勝手に始めるため、理事会が変わる度に大幅な設備改造を行うマンションが多いとの話しがあります。
 場合によっては理事会が提供公園に勝手に子供用の遊具を建設したと思ったら、翌年の理事会で撤去、それに反感を持った住人達が更に次の理事に大量立候補して、また遊具を設置したとか・・・。
 駐車場屋上が無駄だからと理事会が勝手に子供用プールを設置したら反射が眩しいと住民から苦情が殺到、次の理事会が前理事会の反対を無視して大量に土を盛って芝生にしたけど、今度はコンクリートが傷んで駐車場自体がダメになったとか・・・。
 すべてが住民を無視して、理事会だけで勝手にやったことだそうです。



 私が住んでいるマンションの理事会も、高級感溢れる(と触れ込みの)エントランスに勝手に自販機を設置。電源等の工事の為に御影石の壁面を一部だけ、コンクリートの上にお風呂のタイル(のような物)を張ったものに魔改造してしまいました。
 当時の理事に文句を言ったところ「理事会で決定したことだ」で受け付けません。
 私が「規約には住民の意見を問うと書いてあるが、意見を集めたかの?」といったら、返ってきた答えが、
「そもそも理事会は住民の代表だ! だから理事会の意見が住民の意見だ!」
 という何とも身勝手な拡大解釈でした。

 その後も、それならば規約自体をもっと厳密にしたら良いと提案しましたが、規約の改定を上程する権限自体を理事会が握っているのでどうにもなりません。

 結果、翌年の理事に立候補することになったのですが、理事になってもっと驚愕することになりました。
 理事会で私が自販機の撤去を検討することを持ちかけたところ、ほぼ全員一致で賛同して貰ったのですが、彼らは口々に「理事会の権限で撤去すればいい、いちいち住民の意見なんかいらない」と言うのです。
 理事の多くは単なる順番でなっている人でしたが、どうやら住人の多くは各々いろいろなポイントで過去の理事会の行ってきた行為に腹を立てており、自分も理事になったらこのマンションを『俺様』の好きに変えれると思って理事会に挑んでいるのでした。
 結局、私の「住人の意見を聞こう」という案は却下され、撤去された自販機の後には大きな鉢植えが置かれることになりました。
 それを見た知り合いの住人は「ダサい」「前よりもっと邪魔」等と散々の酷評。

 今にして思えばこの場合、何をどう変えても不満は上がるのです。全員が一致する案なんてないのですから。
 すると、そもそも最初に自販機を置くと云う変更を行った時点で軌道修正は不可能になっていたのでしょう。
 マンションなどの多くの人が共同で生活する場に入居する場合、多くの人はそのマンションの大部分を好み、一部の好まない部分も納得して入居している筈です。
 従って、その状況を変更するのであれば大抵の場合、多くの人がから反対が出るのは当たり前。理事会などが敢えて住人の意見を聞かないのは、自分の我が侭を通すために住民の権利を握り潰すためだと気付きました。

 皆、いわゆる期限のついた独裁をしたいのです。
 他人の権利を奪って、自分の我が侭を正当化したいだけだったのです。

 以前、民主党政権のカンという、憲政史上最悪のテロリストが日本の首相だった時に「議会制民主主義とは期限付きの独裁を許されたということだ」と明言していましたが、これが極左思考の典型です。
 今の日本人は知らず知らずのうちに全体が極左思考に染まってしまっており、本来の中道は全て右翼という認識になってしまいます。


 これら全てが、私が大嫌いな学校教育の結果に出来上がった『自分だけの権利』人間の所行です。



 以前のブログでも何度も書いていますが、学校では日本国憲法を捻じ曲げて教育しています。
 憲法にある「基本的人権の尊重」を自分の権利の主張として教育しているため、現在の日本人の多くは自分の権利を主張することはしますが、他人の権利自体には目もくれません。
 結果、地下鉄の駅でタバコを吸っても「俺の勝手だ! お前にトヤカク言われる筋合いはない!」と主張しますし、公共の場所にゴミを放置する親子を注意しても「ここはお前の家じゃない!」と言われます。

 基本的人権の成り立ちを考えれば、これらの主張が如何に捻じ曲がっているのかが良くわかります。
 わざわざ憲法に記載されているのは、国家という権力が個人の人権を侵害する危険を考慮しているためであり、個々人が周囲の人間の人権や権利を尊重するのは当たり前のことです。
 以前、小学校の教員と問答した時に、教員でも『人権の尊重』の意味をほとんど理解していないことを知りました。
 タバコを吸う場所にしても、ゴミの放置にしても、国有地の占拠にしても、裁判にかければ本来それは当たり前に判決される筈なのですが、最近の判例を見るとこの捻じ曲がった考え方はどうも裁判官にも浸透してしまっているようです。


 私には原発云々に対する意見もありますが、それよりも最も危惧しているのが、この捻じ曲がった権利の主張です。


 老人や体の不自由な人を優先するのは個人の自由ではありません。
   人としての義務です。

 自分の権利を主張する前に他人の権利を尊重するのも義務です。
   権利を主張できるのは、義務を果たした人だけです。

 『権利の平等』における権利とは、負った義務の大きさと同じです。
   負った義務が小さければ得られる権利も小さい、それが本当の平等です。


 従って、個人が主張できる自分の権利なんて、関係する人が1000人いれば1/1000ですし、その権利だって自分が他人の半分も義務を果たしていなければ1/2000以下です。
 先日このブログにアップした生活保護の問題にしても、仕事(義務)をしない人に金銭・享楽(の権利)は皆無です。じゃなきゃ逆に不平等じゃないですか。


 今の日本のように、そもそも他人の権利なんて考えずに各々に自分の権利だけを主張する人が跋扈するのは、もはや人間の社会とは呼べないと感じます。


 今日も話が思いっきり逸れましたが、大口弁護士がその公園で自分の権利を主張できるのは、その面積の1億2700万分の1だけ、砂粒程です。
 仮に公園の7割の土地を占有しているなら、全国民の7割の署名なりを集めてから権利をホザクべきです。

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